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第5章 自然法爾・全託・無為 5 仙人、呪術へのとらわれ 七仙人の物語 五井先生の高弟の一人に村田正雄先生がいらっしゃいました。前の項目で紹介しましたが、稀有な霊能者で、霊界や高次元の宇宙人と自由に交流できる方でした。その体験の中から仙人と交流した話をまとめた「七仙人の物語」(白光真宏会出版局)があります。 仙人は、深山幽谷で、滝に打たれたり、呪文を唱えたり、印を組んだり、統一に励んだりして体を霊化させ、ある術を会得し、様々な摩訶不思議な力を発揮させます。その力は、水の上を歩いたり、空中を飛翔したり、瞬間移動したり、嵐を呼んだり、ほとんど食べることをしなくても生きることができたりするなど様々です。 しかし、その境涯は、霊界の上位、霊界と神界のボーダーライン当たりで、神界へは到達していないと聞きます。命を懸けて壮絶なる修行を一生あるいは何生かけて行い、人をあっと言わせる術を得ても、何故、神界に昇れないのでしょう? かの役の行者は、修行の末、肉体を霊化し消滅させ屍解仙として霊界に移行した人です。その役の行者が霊界へ行って悟ったことは、いくら自分の力で体を霊化させて神秘力を得ても、神の世界は限りなく奥が深く、自分がある以上、神の高い世界には昇れないということでした。 苦行は悟りの因にあらず お釈迦様は、長い苦行の末、「苦行は悟りの因にあらず」と、いうことを悟られたと聞いています。実際に悟ってみれば、悟るも悟らぬもない、初めからすでに悟っている素晴らしい自分が、この肉体の奥に実在しており、悟りとは、その悟っている本来の神なる自分を見出すことである。 仙人のように肉体を苦しめる修行を、何年、何十年、はたまた何生かけて行い、いく通りの術を得ても、それらは枝葉末節のことであり、悟りに至ることはできないということです。それは五井先生も常々おっしゃっていたことです。 村田先生が、このご本で伝えたかったことは、その一点に尽きると思います。自らも霊能者として、様々な霊的な能力をお持ちでありながら、それを自慢されることはなく、村田先生のことを知らない人は、普通のオジサンとしか見えなかったでしょう。 悟りとは、本来の悟っている自分を見出すことであり、それは、仏の子、神の子として、神と一なる自分を自覚することです。七仙人の中で、術としては大したことのない山羊の乳を出す術で困っている村人に分け与えている内に、「愛」に目覚めた仙人が、他のどの仙人よりも先に神界へ昇華したことは特筆すべきことです。 愛を行じること 現代社会に生きる私たちにとって、今さら山に籠って難行苦行する必要はなく、自分の肉体を痛めても悟りを得ることはできません。ただ唯一、神は愛であることを信じ、愛を体で表してゆくことです。 五井先生は、「行いこそすべてである」と繰り返しお説きくださいました。「神よ、神よ」と神を呼ぶ者が救われるのではなく、神を呼ばなくても、黙って愛を行じている者が真の救いを得るのです。 「世界平和の祈り」は、社会生活を営む現代人のために、神が満を持して下してくださった祈りです。神秘力を求め宗教に入ると道を外します。堂々と宗教の本堂を歩みましょう。 それは、愛こそすべてです。世界の平和を祈ることこそ、愛そのものの行為であり、神我一体の姿です。寝ても覚めても、ひたすら「世界平和の祈り」を祈り続けるのです。それは神に真っ直線に通じ、高い神の世界の従者になります。 神秘力にとらわれない、ひたすら消えてゆく姿にして、愛を行じてゆきましょう。 |
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