第3章 祈 り
― 世界平和祈るは神の御心のひぎきにあれば祈る楽しさ ―
5 世界平和の祈りは、現代の念仏行
人間は罪悪深重の凡夫である
「人間は罪悪深重の凡夫」とは、まさにその通りです。人間は迷い苦しみ、戦いの歴史を繰り返してきました。これは一体いかなることでしょうか?
改めて、自らを省みると、本当に不完全極まります。病気や老い、死への恐怖、別離の悲しみ、妬み、嫉み、闘争心、心の葛藤・・・・・果たして、こんな人間に救いはあるのでしょうか?
人間の本心は、神から来ており、本来は絶対なる神の無限なる力を有し、この広大なる宇宙を一糸乱れることなく運行せしめているその力と一つのものです。
しかし、無限な神なる霊が肉体という有限な肉体の体に入ると、本来の無限なる力を制限され力を発揮できなくなります。それは裸で走っていた者が、重い鎧兜を着て走っているようなものだと五井先生がおっしゃっている所以です。そして、本来は一つであった霊が、肉体に分かれたことにより、私とあなたは別々の存在であるという「別離」の思いが「エゴ」となり、自己中心的な考えや言動となり争いを繰り返して来たといえます。
すべては、「人間は、肉体であるという誤謬から始まる」と、五井先生がお説きになっているところです。
原理は一つ
それでは、この肉体にとらわれた人間の救いは、いかがしたものでしょうか?
それは人間が肉体に別れて生まれた分離の想いを一つにすること、肉体にまつわる「エゴ」を薄め本来の神に想い向けることです。そのためにこそ、宗教があり、あまたの聖者・賢者が教えを説いてきたところです。
キリスト教は、人間は生まれながらにして「原罪」をもち、罪の子を救ってもらうために神に祈りました。
浄土門は、人間は「罪悪深重の凡夫」であると断じ、「一向専心、南無阿弥陀仏」、ひたすら阿弥陀仏へ帰依するために念仏しました。
五井先生は、肉体にとらわれるすべての想いを「消えてゆく姿」として、「世界人類が平和でありますように」と、ひたすら神のみ心である「世界の平和の祈り」を祈り続けることを提唱されました。
その救われの原理は一つ、それは「祈り」です。
ひたすら、肉体へのとらわれの想いを祈りに替え、本来もつ神性を顕現させることです。
現代版念仏行
五井先生は、ご著書「生きている念仏」の中で、妙好人の話をたくさん紹介していただいています。学問・知識はなくとも素直に仏を信じ、ひたすら念仏一念で生き、悟りの境地に至った人たちです。
人間は、先のことに想いをむけ不安を抱き、いつも何かを想い患っています。先のことをいくら想っても何の益もなくエネルギーの無駄使いになるだけです。必要ないことは想わないこと、いちいち、ああでもないこうでもないと想いを揺らさないことです。大切なことは、想いを巡らす替りに、神にのみ想いを向けることです。
ただひたすら「南無阿弥陀仏」、何があっても「南無阿弥陀仏」、その繰り返しが妙好人をつくったのでしょう。
「世界平和の祈り」を祈ることは、まさに「現代版の念仏行」です。世界平和の祈りを祈り続けた人の中から、自然法爾に妙好人が生まれて来ることでしょう。
神を学問・知識で知ろうとするのではなく、祈りを通して神になりきることです。
世界人類が平和でありますように
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