第1章 神様のはなし
― 心臓を動かしているのはだれ? ―
1 神様は本当にいるの?
心臓を動かしているのは誰?
人間は、「生きているのはなく、神によって生かされているのですよ。」とは、五井先生が繰り返しおっしゃっていたことです。人間は生まれてこの方、自分で生きていると勝手に思っているだけで、実は大いなる勘違いです。
まず、この世に生まれたのは、あなたがこの肉体をつくったのですか?内臓を動かして食べ物を消化し、たゆみなく心臓を動かしているのは誰ですか?あなたはそれを行っているのですか?
明らかにその答えは「NO」です。自分がこの肉体をつくった覚えはありませんし、心臓を自分の力で動かすことも止めることもできません。自分ではない大いなる存在が、この肉体を形と成し、育ててきたとしか言いようがありません。
その大いなる存在こそ、「神」です。仏教では「仏」、老子は「道」と説き、現代の言葉に置き換えれば「生命・自然」と言ってもいいでしょう。いずれにしても、自分の力ではない、この宇宙を生み動かし、この肉体を生み育てている存在が厳然としていることは否定しようがありません。もし、神の存在を否定するならば、それは自らの存在を否定することになります。
自力と他力
この世に生を授けてくださったのが神であり、今、心臓が鼓動し息をしているのも神の力であるわけですから、自分、自分と思っている自分は、いったい何者なのか・・・?
五井先生は、「人間は本来、神の分霊であり、神の子である」とお説きくださいました。すなわち人間とは、本来、この大宇宙を創造した神と一なる存在であり、その無限なる能力を内に秘めているということです。この自分と思っている肉体は、単なる神の生命を宿す器であり表現体であり、神から見れば本当にちっちゃな「出店」みたいなものです。
人間は、自らの親である神の存在を忘れ肉体がすべてだと勘違いし、自分の力、「自力」で生きていこうとするところから苦悩や争いが生じます。神からいただいた生命ですから、すべて神にお任せして、「他力」で生きることが一番です。人間はまず素直に神の存在を認め、神の力によって生かされていることに気付くことです。
私が好きな聖書「マタイ伝」の一文を奉げます。
「この故に我なんぢらに告ぐ、何を食ひ、何を飲まんと生命のことを思ひ煩ひ、何を着んと体のことを思ひ煩ふな。生命は糧(かて)にまさり、体は衣に勝るならずや。空の鳥を見よ、播かず、刈らず、庫に収めず、然るに汝らの天の父は、これを養ひたまふ。汝らは之よりも遙に優るる者ならずや。汝らの中たれか思ひ煩ひて身の長(たけ)一尺を加へ得んや。又なにゆゑ衣ことを思ひ煩ふや。野の百合は如何して育つかを思へ、労せず、紡がざるなり。然(さ)れど我なんぢらに告ぐ、栄華を極めたるソロモンだに、その服装(よそほひ)この花の一つにも及(し)かざりき。今日ありて明日炉に投げ入れらるる野の草をも、神はかく装ひ給へば、まして汝らをや、ああ信仰うすき者よ。さらば何を食ひ、何を飲み、何を着んとて思ひ煩ふな。是、みな異邦人の切に求める所なり。汝らの天の父は凡てこれらの物の汝らに必要なるを知り給ふなり。まづ神の國と神の義を求めよ。然(さ)らば凡てこれらの物は汝らに加へらるべし。この故に明日のことを思ひ煩ふな。明日は明日みづから思ひ煩はん。一日の苦勞は一日にて足れり。」
この世は、すべて神様の力、「他力」によることを深く悟るべきです。
世界人類が平和でありますように
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