第3章 祈 り
― 世界平和祈るは神の御心のひびきにあれば祈る楽しさ ―
1 祈りとは?
祈りとは生命の宣言である
祈りとは、生命の宣言である。
祈りとは、根をしっかりと大地に下しそびえ立つ大樹の姿である。
祈りとは、無邪気なる赤子の姿そのものである。
とは、五井先生がおっしゃったことです。
祈りとは、神の生命が障りなく生き生きと躍動している姿であり、その神の生命と一つになる行為です。
神様ありがとうございます、いつも神様と一つでありますように、愛深き私・勇気ある私でありますように、私が・皆が幸せでありますように、世界が平和でありますように・・・これらは、神と一つになる純粋なる「祈り」です。
「祈りが一体何の力になるのだ」、という人がいますが、それは真の「祈り」の意味を知らないからです。神に祈るとは、神と一つになり自らの生命を輝かせることであり、生命が輝けば、すべては整い上手くいくに決まっています。
願い事・念力・祈り
一般的に、祈りは、神に願い事をすることであると思われています。自分や家族の幸せ、商売繁盛などを祈ることは、生命が自由になりたいために祈るのであり、自然な行為で悪いことではありせんが、その願い事を真の「祈り」に純化されることです。
本来は、神はその人が必要なことや物はすべてご存じですから、あえて自分の願望を神に祈る必要はなく、神にお任せして感謝していれば、すべてが整います。しかし、なかなかそこまで信じ切ることはできませんので、願望をお祈りしながらも、最後に「神様の御心のままになさしめ給え」という祈り言をつけることが大切です。
よく似た言葉に「念力」という言葉があります。祈りは、神の生命エネルギーを発動させることにありますが、念力は、神を介さず行う行為で、念力により願望を成就したとしても、「悟り」とは無関係で、念じる力が弱まれば力は出てこなくなります。
念力は、「自我を増長させ神から離れます」
念力と祈りの違いは、よーく理解する必要があります。
祈りと統一
神と一つなることを「統一」する、と五井先生はおしゃっていました。その方法として、祈りや唱名念仏、座禅観法や瞑想、ヨガなど方法は様々ですが、日常の社会生活を送りながら、神との一体化を図る方法としては、やはり「祈り」が有効です。
五井先生は、「想念停止(空感)」によって、神との一体化を図られました。それは、いかなる時も何も想わない訓練により、肉体の自我を滅し、本心と想念が一つになり「神我一体」の境地になられたということです。
しかし、五井先生は、ご自身が経験された想念停止の方法は、誰にでもできるものではなく、その替わりとして、「祈り」を提唱されました。最初は、神(守護霊様)にひたすら「感謝」することを説かれ、後に、「世界人類が平和でありますように」という世界平和の祈りを提唱されました。
祈りとは神と一つになる方法であり、念力とはまったく次元が異なるものです。近年、「引き寄せの法則」がもてはやされていますが、それは「念力による願望成就法」です。
念力を超え、祈りを通して、神の光と一つになり神の世界を創造してゆきましょう!
世界人類が平和でありますように
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