第1章 生い立ち
― 山と川を友として ―
3 天才画家誕生
小学校5年生 小皿に水彩絵具で着彩
わばだはゴッホだ!
小学校五・六年生の担任はアズマ先生と言い、私の絵をエラク買ってくれ、よく褒めてくれました。ゴッホ張りのタッチで、水彩絵具なのに水をほとんど使わず油絵のようにブ厚く絵の具を塗り重ね力強く描いていました。誰にその描き方を教わったわけでなく、自分の感性が自然にそのような表現になったのでしょう。
その頃描いた絵は、この皿絵が一点しか残っていません。ゼロ戦と戦艦大和が大好きで、よく描いていました。今見ると小学五年生が描いた絵には見えません。よく描いていると思います。
写生会で「警察署の建物」を正面から描いた絵や「三良坂リョービ工場」を見学し働く人を描いた絵は今でも記憶の中に残っています。躍動感が伝わってくるゴッホが乗り移ったような素晴らしい絵だったと記憶しています。「わばだはゴッホだ!」ここに天才画家は誕生しました。
水を得た魚
高校に進学し、もちろん、芸術は「美術」を選択しました。その時の美術の先生がコモリ先生と言い、絵しかやらない授業構成なのに本当に楽しい授業でした。私が美術教員の道に入ったのはこの先生の影響が大です。徹底して絵の面白さを教えていただき、油絵を初めて手にし、まさに「水を得た魚」の如く、次から次へと絵が生まれました。誰に教わるでもなく、ピカソの立体派風の絵や、ユトリロを彷彿させる重厚なタッチの建物の絵や、ダリの超現実派張りの絵を自由に描いていました。油絵具に砂を混ぜ重厚感を出すこともやっていました。どの作品も個性的で素晴らしいものです。広島の実家に帰省すれば、その当時描いた絵はまだ残っています。機会があれば写真を撮りアップできればと思います。
休日は、バイクに乗りスケッチに行き、三十号くらいの絵を授業の中で描いていました。その当時「アトリエ」という絵の月刊誌が出ており、それを読むのが楽しみで、新しいテクニックに挑戦しました。今でもその本は「宝物」として本棚にずらーっと並んでいます。その当時は、自らを「天才」などと意識していませんでしたが、今振り返ると、その自由奔放な作品は「天才」と言わずして何と言えばいいのでしょう。その当時からすでに守護霊様としっかり繋がっていた感じです。
天才休眠から復活へ
本当はそのまま、すくすくと才能が開花すれば、時代の寵児として「天才画家」は世に出たかもしれません。ところが、世の中はそんなに甘くはありませんでした。
高校三年生の夏、美術大学を受験することを決意し、二年間浪人し運よく武蔵野美術大学造形学部油絵学科に入ることができました。しかし、その浪人と美大生を含む六年間の画学生時代の生活は凄まじいもので、朝から晩までひたすら絵を描き続け、爪が紙で擦れ薄くなり割れました。昼はデッサン用の消しゴムに使う食パンの残りの耳を食べるだけの時もありました。昼間からウイスキー(サントリーのトリス)の小瓶をポケットに忍ばせ、ウイスキーをひっかけては絵を描いていました。夜は酔っ払い、アル中の一歩手前まで行っていました。一晩でオールド一本空けることもありました。生い立ちで紹介しました通り、気づいたら我父とまったく同じ酔いどれ人生を歩んでいました。(この酔いどれ人生は結婚して子供を授かるまで続きました)
大学を受験するために、デッサンを勉強し物を描く訓練をして、寸分たがわず物は描けるようになったのに、何故か肝心の絵が描けなくなってしまったのです。アイディアがまったく湧いてこなくなりました。「あれはいけない!これはダメだ!」と周りから常識を叩き込まれ、それが頭の上の蓋となり天からの道が閉ざされた感じでした。ここに天才画家は休眠状態に陥りました。
人間は、天意のままに自由に動けば皆天才なのですが、多くの人は常識にとらわれ遮られ、天からの道が閉ざされます。大人になっても子供の心を失わず「天」と繋がることができた人、その人こそ「天才」の称号を得る人です。
私は、天才としてその道を歩んだものの、途中その道は閉ざされ、長い間闇の中を彷徨いました。しかしまさに今、天からの道が開き、新たに自由自在な道が見えてきました。
ここに「天才の復活」を宣言します!
世界人類が平和でありますように
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